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気分気ままに思ったことをつらつらと…

イギリスの大学院で国際開発を学ぶことについて

国際開発、厳密には教育開発を学んでいるのだが、最近少し思うことがある。

 

イギリスの大学院で国際開発を学ぶということは、この道を目指す人にとってはもはや当たり前となっている気がする。多くの日本人が、国際協力・国際開発の道を進むと決めてからイギリスもしくはアメリカで修士課程を取得している。この流れに私も乗ったのだが、いざ来てみると少しがっかりする…というか違和感を抱かずにはいられないところもある。

 

それについてうまくまとめられるかわからないが、思ってることをつらつら書いてみる。イギリス、アメリカ、日本のどこかで開発(国際協力)を勉強しようと悩んでいる人に少しでも参考になればと思う。

 

学問を学ぶ視点は、その大学の特色によって異なる。私の在籍している大学は批判的な視点で見るのが好きだ。開発、とりわけ欧米主導の開発を批判し、現在の世界の権力のバランスを批判している。要は欧米主導の体制や国連や国際組織におけるお金の動きの批判など、まあ、要はそういったことだ。また、私の在籍するコースは経済的な不平等を中心に見るのではなく、もっと世界のシステム全体における不平等などを中心に問題としている印象がある。経済的なことをもう少しいうと、ここは新自由主義に懐疑的な立場をとっているが、別の大学院に行けば新自由主義を絶賛しているところもあるといった感じ。

 

こういうところをうまく説明できないのだが、要は大学によって問題の切り取り方や視点が異なる。こういった大学、コース間の違いは日本でもあるだろうし、教授によっても当然違ってくるから大学院を選ぶ時は慎重に選んでほしい。

 

私はもともとこの大学院、コースの考えに近い立場なので問題ないが、例えば、より良い仕事を得るための教育をなんとしてでも全世界のこどもにとどけたいという人がいれば、このコースはその人の立場と異なるため葛藤することになると思う。

 

まあ、この辺はそれほど大きな問題ではないのだが、問題というか、ふと思ったことは、やはりここはイギリス。イギリスの視点で学問が進められるということ。当たり前と言えば、当たり前のことなのだが。

 

当たり前だが、気づくとここで勉強している意味を考えるときがある。いや、私自身がというよりも周りの友人たちがここで勉強する理由はなんだろう…ということなのだが。(はてしなく余計なお世話な話だが…)

 

イギリスの視点で語られるということは、それは「イギリスやアメリカの行っている」現行の国際開発や世界体制について学ぶということ。批判的に物事を見るということは、自分たち(イギリスを中心とした欧米)の行っている国際開発というプロジェクトに対する批判。つまり欧米出身者もその他の地域から来た私たちも、ここで学んでいることは、イギリス、アメリカ、ヨーロッパとイギリスの旧植民地における国際開発の動きだということ。

 

語られる国は決まってアフリカの一部だし、パキスタンやアフガニスタンなどの欧米にとって政治的地理的重要かつ深い関係のある国々が主である。アジア、中南米はほとんど語られることはないし、その地域の専門家はわりと少ない。

 

その割に、アジアや中南米からの留学生も多い。開発という概念そのものを学ぶにはたしかに問題ないのだが、それを自分たちの国の視点でエッセイを書こうとするなかなか難しいところがあるし、それをイギリスというアジア、中南米の研究が乏しい地域でやる意味はあるのかという疑問が生まれてくる。

 

例えば、将来は国際機関で働くというのならば、それはいいと思う。私もその一人だが、結局大きな国際機関は欧米によって動いているからだ。

 

じゃあ、例えば将来JICAで働こうという人は、わざわざアジアの研究の乏しいイギリスで学ぶ必要はあるのだろうか?JICAのプロジェクトについて論文を書こうと思ったときに、日本語の論文の方がはるかに英語よりも多いはずなの、わざわざそれをここに来てやる意味は何だろうか。

 

国際開発に対する姿勢、もっと幅広く言うとボランティアや慈善活動に対する姿勢や考え方は根本的に日本と欧米では異なっている。にもかかわらず、わざわざ考えの異なるこの地で学ぶ意味は何だろうか。欧米の方がこの分野において先進性があると思われているのかもしれないが、そもそもの考え方や目的が異なってくるとあまり比べようがないのではないかと思う部分もある。

 

少し具体的にあった話をあげると、エッセイの内容について迷って教授に相談すると日本のこれについてやってみたらどうだろうか?と日本の専門家でもないのに提案してくる。それについて調べてみると、実際に英語での資料が乏しすぎたり、そもそもその日本のプロジェクトが途中で挫折していたりする。

 

また、驚くことにすべての講義においてフェミニズムの話が出てくる。フェミニズムという考え自体日本でどの程度浸透しているのかと驚くほどに耳にしない単語をこっちではいたるところで耳にする。フェミニズムのような典型的なイギリス発祥のイギリス的な考え方を学びたいのであれば、良いのだが、「フェミニズムと開発」に関してあれだけ熱くなれる人はどれだけ日本にいるのだろうか。

 

男女差別という言葉はたしかに日本でも最近よく耳にするが、はたして学問の一つとして真剣に取り入れているのかと言えば、個人的には首をかしげたくなる。実際に他地域から来た友人の多くはフェミニズムに関する講義になると休みがちだったりする。

 

こうしてみていくと、イギリスと欧米の視点から語れる(それがたとえ批判的であったとしても)国際開発学は、自分の国に戻って自分の国の組織で働く人たちにとってどれだけ意味があるのだろうと疑問に思えてくる。

 

たしかに世界的な流れや国際的な話であれば、どこでも通用するが、それはおそらくどこの国でもやることだ。

 

ただ、様々なバックグラウンドを持った人と学べるということはたしかに大きいし、ヨーロッパという世界を動かしている大きな力を持った地域で暮らすことで何かしらは得られることは間違いない。こういったメリットは自国や自国の周辺地域では得られない学びだ。

 

ただ、既にそういったバックグラウンドを持っている人や自国で将来働くという人は必ずしもイギリスにまでくる必要はないのではないかと思う。もちろん、欧米と日本の開発や考え方の比較という意味でも来る価値はあるのだが。

 

ここに来ればあくまで語られるは欧米視点であるということは忘れてはいけないし、みんながみんなこの地に集まっているがゆえに、逆に目新しさがないという問題もあると思う。結局多様な人が集まっても、皆が皆同じような内容を学べば、考え方はそれなりに統一される(世界レベルで)。だから知的な面白さは正直、ない。

 

いっそのこと、ポスト開発主義の生まれたラテンアメリカや援助で発展したアフリカやアジアの大学院に身を置いた方が面白いものが生まれるかもしれない。

 

そんな気がしている今日この頃。