My Life is In Here

気分気ままに思ったことをつらつらと…

ベルリン旅行記...?ベルリンに行って見たこと、思ったことー

チェコの旅行の途中ベルリンに2泊3日で行ってきた。

前回(チェスキー・クルムロフ旅行記 - My Life is In Here )の記事でも紹介したSTUDENTAGENCYというバスを利用して片道約5時間(実際はもう少しかかった)だった。 

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 着いた日はブリュッセルでテロがあったため、その追悼イベントが行われていた。

 

 

Booking.comThree Little Pigs HOSTEL BERLIN - Jugendherberge KREUZBERG  というホステルを予約した。こちらもスムーズにチェックインできた。

 

ベルリンはプラハのように観光地が密集していないせいか、それほど客は多くなかった。修道院を改装した宿らしく、それなりに雰囲気の合った宿だ。場所もそれなりに良い。Wifiが遅いという問題以外は特に大きな問題はなかった。

 

宿から徒歩でも十分様々なところを回れる。

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ソニーセンターまでは10分くらいで行ける。ユダヤ人の碑は徒歩15分くらいだっただろうか。

 

ここが行きたかったところの一つ。正直、友人がここで素敵な写真を撮っていたため行きたかったというどうしよもなくしょうもない理由だった笑 しかも同じような写真を撮りたいと思いつつも結局一人旅だったため撮ることができずに終わった笑

 

ここ以上に行きたかったところはロマの慰霊碑

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博物館があったと思うのだが、調べても何も出てこなかったため、勘違いしていたのだろう。残念。

 

ユダヤ人のものと比べるとシンプルで地味かもしれないが、実は淵にドイツ語と英語で何か書かれている。よく覚えていないのだが、without wordとかsilentとかそんな言葉が書かれてた。言葉を発することなく、苦しみ、なんたらなんたらだったような…。うーん、思い出せない。ネットでまた調べなおせばいいと思ってメモを取らなかった。

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こちらは有名なイーストサイドギャラリー。東ベルリンに建てられてた壁に世界からのアーティストが描いていったもの。ほとんどのところにフェンスがあったのは少し残念。落書き、ガムペタ防止なんだと思う。

 

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日本地区への迂回路と描かれた絵。これもなかなか興味深い。

 

この日は他に適当に散歩して宿に戻った。ドイツらしい食べ物はカレーヴルストというカレー粉ソーセージくらいなもので、後は中東料理のファラフェルなどを食べた。なぜかベトナム料理屋が多かった。別にドイツに行った友人に「なんで?」と聞かれたが、そんなことは知らない。

 

せっかくなので調べてみたところ、ベトナムにはドイツ語話者が意外と多いらしい。というのも、東ドイツと当時のベトナムは労働協定を結び、計およそ7万人の労働者と学生がやってきたらしい。80年代の東ドイツは労働力不足に悩まされていた。当時(一応現在もだが)同じ社会主義国のベトナムとこういった協定を結ぶのは納得がいく。今でも多いのは、要するに当時の名残。彼らは帰国したらしいが、実際はそのまま定住した人もいるだろう。

(参照:開発メディアganas: ベトナムに意外に多いドイツ語話者! 6万5000人の元出稼ぎ労働者の名残

 

一通り散策して思ったのは、ベルリンはきれいだということ。ガムが捨てられていたり、ごみが落ちていたり、そういえばイギリス、チェコで多いホームレスもほとんど見なかった(中央駅周辺には物乞いが少しいた)

 

ホームレスと言えば、実はこの国に来た大きな理由は、難民の様子を垣間見ること。ボランティア団体は行く前に見つけていたものの、すべてドイツ語で書かれているというめんどくささ、既にイギリスに戻るチケットとチェコの宿を予約していたこともあり、ボランティアは断念。現在はベルリンも難民キャンプがしっかりあるのだが、その場所がいまいちよくわからなかった。し、そもそも観光で訪れるようなところではないので少し躊躇した。

 

とはいえ、欧州最大の難民受け入れ国。ここで簡単に変えるわけにもいかないとも思った。調べていると中央駅周辺の公園は一時難民受け入れ場所として使われているという情報を得て、行ってみた。とはいえ、昨年の情報。既に情報古く、それらしき場所は見当たらなかった。既に観光客の目には入らないように配慮されていた。

 

ただ、興味深いことにその公園のある地区にはたくさんの移民らしき人々が暮らしていた。ドイツ人もいるのだが、移民の多さと中心地と違って少し小汚いのに驚いた。また、なによりロマが使っていたのではないかというような小屋がフェンスに囲まれてあった。つくりの一回り小さい古く、ぼろくさく、ドイツにあるとは思えない家(というか小屋)が密集していた。木製の馬車のようなものがあったこと、近くにロマらしきおばあちゃんがいたことから勝手な推測だが。ロマの居住区だったのかもしれない。と思うと少しわくわくした。…あるいは、ただの古い家なのかもしれないが。

 

あまり散策するのも道徳的にどうかなと思ったため、特になにもせず、さっさと撤退した。

 

もう一つ驚いたこと、それは意外にも英語表記が街中にないこと。ドイツ人は皆流ちょうに英語を話すと聞いていたため、そして観光客の多い国であり、さらにヨーロッパ最大の経済大国ともなれば英語表記は当たり前、観光客には普通に英語で話してくれると思っていたが、まったくそんなことはなかった。

 

移民やお年寄りは英語ができないし、電車や駅すら英語表記がなかった。フランスであればイメージはつくのだが、ここはドイツだろうと驚いたものだ。ドイツにも、俺はドイツだといったようなプライドがあるのかもしれない。と、すると、現在日本で騒がれている英語や他の言語表記の問題は一体どこが問題なのか不思議に思えてくる。

 

幸い私はドイツ語が多少できるため、そこまで苦労はしなかった。たしかに電車は動いていない時にどうやって移動すればいいのかわからず困っていた観光客は目にした。それでもなんだかんだなんとかなるところを見ていると、別に言語表記の整備を進めなくとも、なんとかなるし、むしろここは日本だぞとドンと構えていればいいのではないかと思う。

 

日本に来て困ることは何ですかというアンケートで言語が必ず最上位に入るのは、ある意味日本人が望んでいることなのではないかとすら思えてくる。言語が問題なんだからそれを何とか克服しようというのは、現在の日本のグローバル人材とかいう意味不明の政策に結びついているような気がする。

 

どこの国でも違う言語圏に行けば言語が通じずに困るのは当たり前だ。でも、それをなんとか乗り越えようとするのもまた一つの旅の楽しみではないだろうか。言語が通じなくてもなんとか助けようという姿勢はそれだけで何か通じるものがある。だから言語そのものを解決しようとするよりも、もっと内面的な部分に注目した方が、それこそ自然なおもてなしなのではないかと思う。

 

そんなことを考えさせられた。

 

さて、翌日は午後のバスだったため、朝はまた違う場所にあるベルリンの壁を見に行った。こっちは当時の様子が残っており、また、当時の様子が写真などを通じて知ることができるようになっている。

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この後、バス停に行き、プラハへ戻り、残りの2日を堪能した。