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セルビア 難民とロマ人 ボランティアを通してー

昨年9月からメディアを騒がせている欧州難民・移民問題

 

内戦の続くシリアをはじめ、アフガニスタン、パキスタン、イラン、イラク、北アフリカなどの地域から難民・移民が欧州へと押し寄せている。

 

 BBCによると昨年は100万人以上、IOMによると今年に入って既に8万人を超える難民・移民がヨーロッパへ渡っている。

www.bbc.co.uk

 

migration.iom.int

 

第二次世界大戦以来の人の大移動に欧州が対応を迫られ、欧州各国は経済面でも治安面でも強い危機感を抱いているだけでなく、今ではイギリスのEU離脱が懸念されるなどEU存続自体にも影響を与えかねない大きな問題として欧州メディアでは今なお毎日のようにこの問題が取り上げられている。

 

既に報道されているとおり、多くの難民・移民はトルコからギリシャへ入り、バルカン半島を通ってドイツや北欧を目指す。一部英語のできる人や家族がイギリスにいる人はイギリスを目指し、フランスへ入る。その他、イタリア、スペインから入るルートもある。

 

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参照:uk.businessinsider.com

 

トルコ・ギリシャから欧州を目指す場合、大抵はブルガリア、マケドニア、セルビアの東欧・バルカン諸国を通ることになる。最も、トルコーブルガリアやセルビアーハンガリーでは昨年フェンスが張られ、国境を封鎖するなどの対応がとられ、これらのルートから難民が国境を渡るのは困難となっている。

 

今もニュースを追っていると、ギリシャ、マケドニアなどでの地元住民の反感や欧州各国の難民受け入れ制限、国境厳重化案など様々な話が出てきており、この問題がどういう方向に向かうのか、先が全く読めない状況にある。

 

そんな中、難民の通過点となるセルビアに1月20日から25日まで、わずか5日間ではあるが、行ってきた。途中、3日間は配給所でボランティアに参加した。

 

 

この地域はこの時期、-10度にもなる最も寒い季節。温暖な地域から来た難民・移民はこの寒さや雪にはなかなか慣れない。着るものもろくに持ってくることができないため、凍傷で病院に運ばれる子供や寒さで命を落とす人も出てきている。つい先日もブルガリアートルコ付近で二人の女性が命を落としている。

 

www.balkaninsight.com

 

 1月20日夜

ブルガリア ソフィアからセルビア側の国境の町、ニシュを経由し、首都ベオグラードへ入った。

 

首都とはいえ、明かりが少なく町の様子が全く分からなかった。

 

1月21日

朝から街を散策。

着いたばかりの時は気付かなかったが、バス停の真横にある公園と反対側にある公園は難民のたまり場となっていた。

 

難民の通過点となっているセルビアへ、日本政府は支援している。

 

これは日本から提供されたコンテナ

 

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 現地の医療スタッフが使用している模様。中の様子は見えなかった。

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許可を得ていないため、写真を載せることはしないが、ここで写真を撮っているとパキスタンから来たという難民たちに声をかけられた。

 

支給されたであろう新品のジャケットに身を包み、携帯以外は何も手にしていなかった。(もしかしたら郊外にある難民キャンプに置いてきたのかもしれないが…。)

 

この日、難民とは別にロマ人(ジプシー)の家族を見かけた

 

汚れた衣服をまとう小学生低学年くらいの女の子が3人いただろうか…

 

それとお母さんらしき人と、おばあちゃんらしき人、そしてべろんべろんに酔っぱらったお父さんらしき人だった。

 

後で詳しく書くが、ロマ人の存在がこの国における難民支援を複雑化していることに気付いた。

 

1月22日 ボランティア初日 食品配給 

 

日に数百人(二百人とかだったような…)来ると聞いていたが、午後のシフトのため、あまり人は来ることなく、忙しくなかった。

 

感想、特になし。

 

ホームレスへの支援と同じ印象

団体も難民も困ってる様子は特に見えず、思っていた以上に落ち着いた感じ。

 

1月23日 ボランティア2日目 食品配給・午後のシフト

 

シリアから逃れてきた20歳の青年に会った

 

彼は家族と逃れてきたがどういうわけかマケドニアに他の家族が残っているらしく、彼一人がセルビアに先に入っていた

 

家族を待っている間、自分も他の人を助けたいということで、ボランティアに参加していた。

 

こういう人は割といるらしい。私がボランティアをしているときも、他の人のためにボランティアをしてるという人が彼以外に2人いた。

 

彼は半日だけいて、急きょマケドニアに戻るということで、途中お別れしたが、一番印象的だった。

 

英語は話せないため、ジェスチャーで会話。最初まったく私に関心がないように見えたが徐々に心を開いてくれたようで、最後にはアラビア語を自ら積極的に私に教えてくれるようになった。

 

電話番号を聞かれたが、セルビアのsimはないため、持ってないといったが、イギリスで使ってるsimの番号を教えればよかったと後で後悔した…笑

 

結論から書くと、このボランティアの最中で、彼らがどんな旅をしてきたのか、母国ではどんな生活をしていたのか、といったことは聞くことができなかった。これは私がアラビア語を話せないこと、私が仲良くなった彼らの多くが英語を流ちょうに話せないことにある。

 

それでも、このシリア人の青年から、特に遊びという遊びはしていないのだろうという漠然とした情報…というよりもむしろ「印象」を得た。サッカーは好きか?ギターなどの音楽をするのか?勉強は好きか?本は読むのか?料理はするのか?

 

ジェスチャーで聞いたため、かなり限界があったとは思うが、すべてnoだった。理解していないという風な印象はなく、はっきりとした表情と口調でnoと言われたため、おそらくこういうことはしばらくできていないのではないかと勝手に予測している。

 

1月24日ボランティア最終日 衣服配給 午前・午後のシフト

この日はほとんど一日いた。

 

朝は多くの人が詰め寄せること、そして23日の経験を合わせて、ようやく難民の状況、この国の受け入れ問題の状況が垣間見えた。

 

 まずこの国に来ている難民の多くはシリア、アフガニスタン、パキスタン、イラク

 

通過点とはいえ、難民証明書を得るため、3カ月滞在しないといけないという人がいた。(一度証明を得られないと、再申請に時間を要するらしい)

 

多くは疲れ切っている顔で、慣れない雪に対応するために次々と靴の交換を頼みに来た。残念ながら彼らの多くが必要としているサイズの靴(ブーツ)が不足しており、ほとんどの人にいきわたらなかった。

 

靴をはじめ、衣類は一人一つと決められているらしい。どういう理由があるのかはわからないが、どうも国か他の大きな組織が決めているらしく、二つ三つ持っていこうにも、バス乗り場で余分なものをおいていかないといけない仕組みになっているようだ。

 

不思議なことに、靴下ですら一人一足と決められており、古いものは破棄していかないといけない決まりになっていた。理由を聞いても、よくわからなかった…。ただ、薄っぺらい靴下ではとても耐えられる寒さではない。ほとんどの人が強い口調で私たちに文句を言ってきた。涙をこらえる人もいた。そのたびに、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 

中には理解してくれる人もいた。私が仲良くなった人たちは皆理解してくれた。が、理解してくれない人は文句を言うし、こっそり持って帰る人もいたし、古い靴下の上にはいて隠す人もいた。私が参加する前は、がばっと大量の靴下を持ち去る人もいたそうだ。

 

こういう人への対応はしようがない。ボランティアの数が圧倒的に足りていない上に、配給システムも優れたものではない。

 

とにもかくにも、支給品の数にも限りがあることもあり、食料品を含めて、すべて一人一つというのが基本だった。

 

 さきほども書いたように、スタッフの数が少ない。そのため、列に並びなおす人もいる。さらに支給品をもらってはマーケットに売り飛ばし、再び支給品を受け取りに来る人も多くいるようだ。

 

私は直接その状況を見たわけではないが、隣でそのことについてスタッフともめている被支援者がいた。

 

 売る相手はその時々で異なるだろうが、聞いた話ではロマ人に50セントで衣類を売るのだとか。他にジャケットや靴を必要としている人がいるのに、それを売ってしまうとは…。それも50セントで…。

 

ただ、一方でそれだけお金が必要なのかなと同情してしまうところも個人的にはある。バスでの移動、あるいはこれまでの移動で相当のお金を使ってきたわけで、もしかしたらそれだけ困ってるのかなと思うところもある。

 

ドイツが北アフリカを安全圏と認定したが、北アフリカからの移民・難民の数は相当なようだった。モロッコから来たという人に何人か会ったが、驚くほど彼らは元気だった。

 

シリア人の彼やイラクから来たという人は疲れている様子がうかがえたが、不思議なほどモロッコから来た人たちは元気だった。たまたまなのかもしれないが、彼らの方が欲張りな印象があった。

 

というか、個人的には北アフリカ、特にモロッコからなぜわざわざ遠回りしてバルカン半島に来るのかが不思議でならない。少なくとも北アフリカでも安全なイメージ、というか観光地というイメージしかないのだが…。

 

まあ、その国にはその国の事情があるのだろう。だからわざわざバルカン半島に彼らも足を運んだわけで…。

 

配給所にはロマ人も来ていた。彼らへの配給は原則認められていないが、子供たちは中ではしゃぎまわっていた。男の子の一人は片言のドイツ語を話していた。セルビア語ができない私にドイツ語で話し、私がドイツ語で返すとしっかり理解していた。

 

 

あまり知られていないが、この国もまた、現在難民を輩出している。その85%がロマ民族だという。

prtimes.jp

 

 ドイツ政府は北アフリカ出身者同様、バルカン半島からの難民は受け入れていない。

 

第二次世界大戦が終わってあらゆる権利が認められたユダヤ人と違って彼らはまだ差別にあっている。そのためセルビアにはロマ人を保護する団体が存在する。

 

アジアでよく見る光景だが、ロマの子供たちは夜レストランへ入ってバラを売る。

 

一方で、ジプシーミュージックという名で知られるロマの音楽を目当てに客がそこらじゅうのレストランに出入りする。

 

この国も少し前まで戦争をしていた国。誰かを助けるほどの経済力はまだないのかもしれないが、戦争の傷跡はお洒落な店で隠れていた。

 

難民支援のボランティアに参加する人がいた。

夜はロマの子供たちにハグをしたり、親しげに会話をする人がいた。

 

戦争を知るこの国の人々は、今のこのヨーロッパと中東の現状をどう見ているのだろうか。もう一度行って、しっかり話を聞いてみたい。

 

そんなことを想った旅でした。

 

補足

ロマ人(ジプシー)は古くは移動の民として知られており、現在ヨーロッパ各所で暮らしている。その多くはルーマニアを中心とした東ヨーロッパで生活している。起源ははっきりしていないが、インドから来たという説が有力。そのほか、エジプトから来たというロマもいたらしく、エジプトから来たという説もある。

 

わざわざインドからヨーロッパへ来た理由もまだはっきりと解明していなく、もともとは戦争捕虜で連れてこられただとか、経済的理由だとか、敵対民族との戦争に追われて西へ移動したとか、様々な説がある。

 

手先の器用さと音楽や踊りが有名で、東欧のいたるところでジプシーミュージック(ロマのバンド)を目にすることができる。スペインでは彼らの文化と土着文化が融合して、フラメンコが誕生した。

 

実は私は大学でロマ民族の研究をしていたことがあるので、この旅では難民とロマの両方の現状を知ることが目的だった。この後いったハンガリーではどちらの情報も得られなかったが、セルビアでは思っていた以上に得るものが多く、大変充実した旅だった。